今年の春受講した「とよかわオープンカレッジ」の課外講座を 講師の栗田昌之先生と一緒に企画しました。
JR豊川駅を出発し、野田城駅に到着しました。 講師を含めて、総勢12人です。

野田城駅のトイレの前の案内看板の前で、早速講義が始まりました。
野田城と大野田城は交互に築城されたそうです。
武田信玄と菅沼定盈との野田城の攻防が有名です。


野田城近くの杉川です。堰き止めて、桑渕になります。


野田城址目前の案内看板です。


野田城の平面図です。
三の丸、二の丸、本丸と構えています。 桑渕と、竜渕に囲まれています。
1573年の戦いでは、武田勢はまず、桑渕(図の上側)と、 竜渕(図の下側)の水を落とすとともに、 城内の井戸を枯らすため、坑道を掘って、井戸の水を抜く断水戦術をとって、 開城降伏させました。

先生が乗っている岩は、馬の乗るときに踏んで乗った岩だそうです。


皆が覗き込んでいるのは井戸です。


二の丸から本丸を経由して、野田城を無事脱出しました。




宝飯郡の消滅

5月14日から豊川オープンカレッジで、
「宝飯郡の消滅と新豊川市の誕生」を受講しています。
毎週、土曜日開催で、昨日までに3回目を受講しました。
講師の栗田昌之先生から大変ためになる話と資料をいただきましたので紹介します。
決して頭が痛くなりませんので、気軽にご覧ください。

江戸時代には、宝飯郡で122ヶ村あったそうです。
明治以降、合併を繰り返します。
明治32年の宝飯郡地図をご覧ください。


東側半分。
東上、江島が本茂村、
小坂井が豊秋村と伊奈村だったことを御存知でしたか?
大村、下地町、前芝村は昔は宝飯郡だったのですね。
逆に、八名郡三上村は、昭和30年から豊川市になりました。

西側では、
赤坂村、萩村、長沢村が昭和30年に合併して、音羽町になりました。
この時、御油町が音羽町になるか、豊川市と合併するか、町を二分する激論だったそうです。
住民投票を6回も行って、最終的には4年遅れの昭和34年に豊川市と合併しました。


豊川市は昭和18年に豊川町、牛久保町、八幡村、国府町が合併し、人口約7万4千人で発足しました。 その後、昭和30年に三上村と合併し、昭和34年に御油町と合併しました。
そして、平成の大合併で、一宮町、音羽町、御津町と合併し、 昨年2月に小坂井町と合併して、ついに、宝飯郡は消滅しました。

平成22年7月現在の豊川市の人口は約18万2千人。
市は発展し、行政は広域化しましたが、地域の歴史や文化を大切にしていきたいですね。
意外に知らない、我が町、我が村のこと。
オープンカレッジに参加して、大変勉強になります。



豊川市では、知識や特技など自分の得意なことを教えたい方が講師となり、
学びたい方が受講する学習者同士のつながりによって育くむ、
市民が主体となって運営する学びの場として、
とよかわオープンカレッジを開校しています。


宝飯郡の消滅と新豊川市の誕生」を受講しました。
14日土曜日に第1回目のカレッジがありました。
講師は栗田昌之先生で、本職は高校で地理を教えていたそうです。
退職後には、豊川市史、小坂井町史の編纂などでご活躍されました。


この日のテーマは、「律令国家のなりたちと穂国」です。
初日から興味が湧くテーマです。

配布された資料です。


ごく簡単にカレッジの成果をご紹介します。
大宝律令(701年)以前には、
西三河に「参河国造(みかわのくにのみやつこ)」が矢作川流域を支配し、
「穂国国造(ほのくにのみやつこ)」が豊川流域を支配していました。

大化年間(645年頃)「参河国」と「穂国」が統合して、国名が「三河」となった。
「穂国」の名称は、「穂評(郡)ほごおり」として受け継がれた。

国名の由来は、
矢作川=「御河(みかわ)」⇒「参河」
本宮山=「秀山(ほのやま)」⇒「秀国(ほのくに)」⇒「穂国」
だそうです。

もうひとつ。写真で「宝飫郡(ほおぐん)」とあります。
「飫」とは、「よ、又は、お」と発音し、満腹のように物が豊かなことを表すそうです。
「穂郡」⇒「宝飫(ほお)郡」となり、後に、誤記により、「宝飯(ほい)郡」に変わったそうです。
大変勉強になりました。 face02